寄稿文 靴磨きという教養

「蘇生の記憶」

作業に入る前に爪を短く切り整える、自分の手の骨格とコンディションを確認する。
靴を磨くにはまず、己の手を美しく整えるところからはじまる。仕事前の一種のセレモニーみたいなものだ。

「靴」

それは人類が歩みを進めるために生み出した文明の利器。
靴を磨くことを依頼してくださったお客様の顔を思い出しながら、依頼された靴の汚れや状態を十分に確認する。

今回の靴は、今まで依頼されたなかでも“瀕死”といえる状態だ。
特別な皮で作られた革靴を、こんな状態になるまで放置するなんて…。
いや、これは“大切な依頼”だ。
依頼してきたお客様の人となりにまで、そこまで気を配ることはない。

しかし、依頼主は一見、温和で知的そうな雰囲気の女性。これほど上物の靴をさほど粗末に扱うとは思えない。
人は見かけに寄らないというが、ここまで酷い履き方をするような人格にも思えない。

いったい、この靴がこんな酷い状態になるにはどんな出来事があったのだろう。

そんなことを考えながら、まる二日間かけて磨き上げた靴はたっぷりの栄養をふくみ、味わい深い漆黒の艶を放つ。
新品と言えないまでも「息」を吹き返しているように見えた。

「お客様が納得する顔を見るまでが、仕事だ。」

自分を律するように、独りごちた。
待ち合わせの場所に出向くと、その女性は車から降りて控えめな笑顔で会釈をした。
いつもなら理由など聞かないが、人懐こそうな顔でお礼を言われた瞬間

「どうしてここまで損傷してしまったんですか?」

と口からついて出た。
すると依頼女性は

「とても良い皮を使った靴のはずです。私が人生で購入した靴の中で、たぶん一番価値があります。」

温和な雰囲気の依頼女性の表情が愁いを帯びてきた。
余計なことを聞いてしまったかと、少しだけ後悔しかけた時、彼女は再び口を開いた。

「私の恩人とも言える女性との、思い出の靴なのです。彼女は数年前に四十代の若さで亡くなりました。」

そんな風に話しながら、磨き上げた靴を愛おしそうに眺める。

「多分、初めての大きな仕事で浮かれていたんです。
彼女と成功させたプロジェクトのお祝いに街に繰り出したのは十月でした。大通りではちょうどハロウィンのカーニバルが開催されていました。
私たちは祭りに浮かされた街の雰囲気に飲み込まれるようにハロウィンの行列に参加したんです…。とても楽しかったのだけど、その時におろしたての靴を同じように浮かれ歩く人たちに揉みくちゃにされてしまって…履きおろしの靴を一日で駄目にしちゃいました…。自分でも呆れます。」

心の重荷を吐き出すように一気に話し続ける依頼女性は、気恥ずかしそうな顔をした。

「いえ、一生懸命働いている方の靴だと思いました。」

思った通り正直に告げると、依頼女性は柔らかな笑みを浮かべて

「私、お世話になった彼女が病気で苦しんでいることすら知らなかった。
ある日、突然Facebookで彼女が亡くなったことを彼女の恋人が綴っているのを目にしたんです。急いでご自宅にお悔やみに伺ったら、彼女のお母さまも死の直前まで病気のことを知らなかったと仰っていました。
…彼女、きっと入院するギリギリまで仕事をしていたと思います。私が知る彼女は少なくとも、そういうプロ意識の強い女性でした。」

そこまで話し切ると、依頼女性の表情は完全に吹っ切れていた。

「この靴を蘇生してくださって、ありがとうございます。
私、ずっと彼女に応えるような仕事がしたいと思っていたのに、寄り道ばかりしている気がしていました。あらためて今の仕事に一生涯関わっていくと決めるために貴方に、靴磨きを依頼したんです。」

「そうでしたか、大切なお話ありがとうございます。」
心を込めて、そう告げると

「またお願いすると思います。」
それは敬意のこもった約束のようだった。

私も敬意を込めて
「またご依頼をお待ちしております。」
と答えた。

作業部屋に戻り、目を閉じる。
靴磨きをする作業は基本的に孤独である。孤独だからこそ、完璧な仕事を遂行できるとも言える。
しかし、私は「靴」を通して依頼主の人生の一部を垣間見ている。
人となりを感じながら靴を磨くことは、おそらく「他者との会話」でもある。

“人生とは何か?”を探求するにうってつけな仕事。
それが私の生業とする靴磨きである。

文:真境名育恵(ライター)

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